濱田美栄が指導の道へ進んだ原動力
フィギュアスケート育成の現場から(1)

劣等感ばかりに襲われた米国留学時代

米国留学当時、「劣等感ばかりに襲われた」と語る濱田
米国留学当時、「劣等感ばかりに襲われた」と語る濱田【積紫乃】

 もともとは選手だった濱田は、同志社大学を卒業したのち、コーチへと転身した。

 指導の道へ進んだきっかけの1つは、学生時代の留学経験だった。


「大学生のとき、米国に留学したんですね。そのとき、『もう少しこういうことを教わっていたら、こうしていたらよかったな』って、フィギュアスケートのことで感じさせられることがたくさんあったんです」


 感じたことは「いろいろ」だったと言う。


「滑り方、見せ方、ほんとうにいろいろ。もちろん私自身、教えていただいた先生にはとても感謝しているんですけれども、もうちょっと小さいときにこういうふうにしていたらと、知ることがたくさんありました。それを子どもたちに伝えていきたいと思って」


 今まで知らない世界に触れたからこそ、知らなかったということに後悔があり、これからを歩む子どもに教えていきたいと考えた。それが指導の道へと進む原動力となった。


 米国で過ごした時間がそれだけ刺激的であったということは、日本と米国の、フィギュアスケートをめぐる環境の違いが、どれだけ大きかったかを示している。


「具体的に思い出そうとしても、細かなところはあまり思い出せないんですけれど。それはもう、日本の方はシステムがしっかりしていなかったというか。今でこそ日本がね、リードしていっているような感じですが、当時はまあ後進国でしたね。そうそう、米国で覚えていることの1つが、リンクに行くと『この人、上手だな、上手だな』ってもう劣等感ばかりに襲われたことですね。とにかく違いがありました」


 そして続けた。


「フィギュアスケート自体、日本では知られていなかったものですから。ふつうだったら『野球って何ですか』と聞く人はいないですよね。でも当時はそういう質問も少なくなかった。『フィギュアスケートというのは氷上でくるくるまわるもので』と一から説明しないといけないことも珍しくなかったんです。

 このごろはジャンプのこともみんな知っているじゃないですか。それこそ、トリプルアクセルとか。あ、やっぱり変わったなって思います。競技を知らない人がいなくなって、すごく嬉しいです」

指導者としてのこだわりは「いつも初級」

 フィギュアスケート後進国であったというかつての日本と、リードする現在。競技自体が知られていなかった当時と、ジャンプの名前も浸透した今日。

 2つの話は共通して、フィギュアスケートの立ち位置の違いを示している。

 濱田は、その違いを実感してきた。


 そしてフィギュアスケートが一定以上の認知度を誇る今、指導者としてのこだわりをこのような言葉にした。


「『いつも初級』。それを大切にしていきたいと思っています」


 その言葉には、どのような思いが込められているのか。



 全国のリンクの上に練習に懸命に励む選手がいて、熱心に教える指導者がいて、フィギュアスケートの歴史は今日まで築かれてきた。どの時代も、その原点は変わらない。


 ソチ五輪のシーズンを最後に、日本をけん引してきた選手の中には引退を選んだ者が少なからずいたことで、フィギュアスケート界の今後が話題となってきた。そんな今だからこそ、現場の姿を、現場にいるコーチや関係者はどう考えているのかを知りたくて、訪ねた。


(第2回に続く/文中敬称略)


※「フィギュアスケート育成の現場から」と題し、全国の指導者たちを訪ねる企画を今回よりシリーズでお届けします。

松原孝臣

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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