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LE GENERAL NOUVEAU  
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ジダン写真
ジダンをはじめとする才能溢れる若きレ・ブルーの登場により、プラティニ時代と決別し、フランスサッカーは新たな時代を築き上げることになった【Photo by 出村謙知】

コラム
プラティニ時代の決別と新たな時代の始まり


■フランス代表を襲った「パリの悲劇」


 時計の針はすでに後半45分を指そうとしていた。
 敵陣深くのサイドライン際でFWダヴィッド・ジノラにボールが渡る。スコアは1−1。フランスにとっては、そのまま引き分けに持ち込むだけで十分だった。
 女性誌などにもたびたび登場し、「最もセクシーなフットボーラー」とさえ言われていた、このアタッカーがやらなければいけないことは明らかだった。とにかく、安全な場所で、できるだけ長くボールをキープし続けること。人を喰ったようなトリッキーなプレーを得意とし、常々「カントナやパパンよりも自分を使う方がフランス代表にとってプラスになる」などと、首脳陣の選手起用を公然と批判してきたジノラの存在価値は、こういう場面でこそ発揮されるはずだった。
 後半23分、ジャン・ピエール・パパンからジノラへの交代。ジェラール・ウリエ監督が、犬猿の仲が噂されていたスター選手同士の交代に踏み切ったのも、多分にジノラにそうした役割を期待してのことだった。

 ところが、このスターFWは肝心なところで「最もやってはいけないプレー」を選択してしまう。いきなり“無人の”ゴール前へセンタリング。引き分けに持ち込むために守備的陣容を整えていたフランスのプレーヤーは、当然ながらだれひとりとして相手ゴール前に攻め上がっていなかった。
 やすやすとブルガリアDFが再獲得したボールは、右サイドをフランス陣内に向かって疾走し始めたFWエミール・コスタディノフの足元へ届けられた。そして、次の瞬間――フランスのMFバティストンが、西ドイツGKシューマッハーにKOされた(パンチングを顔面に食らった)、82年のFIFAワールドカップTM準決勝の悪夢に匹敵するような衝撃的なシーンが現実化する。
 後にコスタディノフ自身が「生涯最高の1本」と評した、右足から放たれたミドルシュート。その弾道は完ぺきな弧を描き、追いすがるように手を伸ばしたフランスGKベルナール・ラマのグラブの数十センチ先を通過して、ゴールネットを揺らした。

 血の気の引いた真っ青な顔をゆがめて、立ち尽くすフランスの選手たち。そしてあまりの衝撃に、微動だにできない観客たち。重い静寂に包まれたパリ、パルク・デ・プランスのフィールド上を、白を基調としたブルガリアの一団だけが、抑えようのない歓喜を爆発させながらアナーキーに駆け回る。その時、時計の針はすでに45分を回っていた……。

 1993年11月17日、翌年のFIFAワールドカップTM・アメリカ大会出場を懸けた、ブルガリアとの予選最終戦。ファイナル・スコア、1−2。
 残り2試合で勝ち点1(=引き分け)さえ獲得すれば、フランスは本大会出場を決められたはずだった。しかし結果は、ホームでの2連敗。日本代表を襲った“ドーハの悲劇”と時を同じくして、しかし、それを上回るような悲劇的な結末で、フランス代表はアメリカ行きの切符を失ったのである。

 90年に続いて、2大会連続の予選落ち。このブルガリア戦が、フランス代表を奈落(ならく)の底まで突き落としたことは想像に難くない。4年半後に迫っていた地元開催のFIFAワールドカップTM制覇など、夢想だにできない時代だった。

 しかし、そんなドン底の状況は、一方で「フランス代表にとって生まれ変わるチャンス」(マルセル・デサイー 現フランス代表主将)でもあった。悲惨な結果が変化を強要したのだ。93年末、ウリエ監督からエメ・ジャケ新監督への交代が発表される。この時から、フランスサッカーは新たなる栄光へと足を踏み出すことになる。


■フランスサッカー界をさまよう「プラティニの亡霊」


 ジャケ新監督が最初にやらなければならなかったこと。それは、フランスがフランスであるがゆえに抱えていた「偉大なる過去」への決別――すなわち「プラティニ時代の終焉(しゅうえん)」を強く印象付けることだった。
「みんな、奔放なプラティニのサッカーが好きだった。だが、時代は変わったのだ。モダンサッカーを勝ち抜くためには、もっと現実的にならなくては……」
 ジャケ監督は、後にそう語っている。地元開催のFIFAワールドカップTMで勝利が義務付けられた新監督にとって、「プラティニ時代の栄光」こそ、真っ先に否定すべき存在だったのだ。

 プラティニ時代――“将軍”とたたえられたMFミッシェル・プラティニに率いられたフランス代表は、フランスサッカー史においてまさに特別な存在だった。
 当時のフランス代表は、“シャンパン・フットボール”とも呼ばれ、個性豊かな中盤の選手たちが華麗なテクニックを駆使して奔放なサッカーを繰り広げ、フランス国内にとどまらず世界中のファンを魅了した。実績も申し分なかった。82年、86年とFIFAワールドカップTMでベスト4、さらに84年には初のタイトルとなる欧州選手権優勝を果たしている。FIFAワールドカップTMでの優勝こそなかったものの、82年大会での西ドイツとの準決勝、86年大会でのブラジルとの準々決勝など、大会史に残る数々の名勝負を繰り広げてきた。
 その中心にいたのが、80年代の黄金時代を通してレ・ブルーの「10番」とキャプテンマークを守り通したプラティニだったのである。

 プラティニは87年の現役引退後、ほぼ間髪置かずして88年にフランス代表監督に就任。92年の欧州選手権で1次リーグ敗退の責任を取って辞任したものの、後を引き継いだウリエ監督も、パパン、ジノラ、そしてエリック・カントナといったプラティニ監督時代のスター選手たちを中心に据えたまま“レ・ミゼラブル・デュ・パルク”につながる94年予選を戦った。
 つまり、ジャケ監督就任時のフランスサッカー界には、まだまだ「プラティニの亡霊」が深い霧のように漂っていたのである。

 そんなジャケ新監督が率いるフランス代表は、イタリアとの初の親善試合を経て、94年5月にはキリンカップ出場のために来日している。あの時、日本代表に相対した「カントナ−パパン−ジノラ」の華麗なる3者そろい踏みを記憶にとどめている日本のサッカーファンも少なくないだろう。
 ところが、フランス代表でこの3人がそろってプレーしたのは、この日本戦が最後となった。就任時から「私には98年のフランス代表の素晴らしい姿が見えている」と豪語していたジャケ監督は、就任早々にして、そんな華麗なる“プラティニ・チルドレン”たちに見切りをつけたのだ。

 新指揮官の大胆な決断は、当然ながらフランス国内で大きな議論を呼んだ。
 著名スポーツ紙『レキップ』などは、数回に渡って「カントナ、パパンはフランス代表に必要ではないか?」という読者投票まで行い、ジャケ監督と対峙(たいじ)する姿勢を取り続けた。しかし、いくら批判の矢面に立たされても、ジャケ監督は自らの信念を貫き通す。すなわち、「98年版フランス・モダン・サッカー」のチームには、カントナもパパンもジノラも入ってくる余地はないのだ、と。

 恐らく、ジャケ監督がここまではっきりと過去との決別を断行できたのは、それと前後して、1人の新しい卓越した才能を持つフットボーラーの登場があったからに違いない。その新人は、前述したキリンカップ後、最初のフランス代表の試合で、“プラティニ・チルドレン”たちと入れ替わるように最初の代表キャップ(=試合出場)を刻んだ。


■新タイプの司令塔、ジダン


 94年8月17日。すでにカンヌからボルドーに移籍していた22歳のジネディーヌ・ジダンは、自らのホームグラウンドでもあったパルク・レスキューで行われたチェコとの親善試合で華々しい代表デビューを飾っている。0−2の劣勢で迎えた後半18分に投入された若きジダンは、いきなり2本のシュートを相手ゴールに放り込み、試合を引き分けに持ち込むという離れ業を演じたのだ。

 この時、ジャケ監督が思い描く「98年版フランス・モダン・サッカー」の青写真は、ほぼ出来上がっていたのかもしれない。
 彼が就任当時から標ぼうしていた「高いテクニックに裏打ちされた、統制の取れたモダンフットボール」。それを実践するために必要な若い人材について、ウリエ監督時代に代表コーチを務めていたジャケ監督は、ある程度イメージが出来ていたはずだ。
 彼の監督就任前後に代表に加わった若手選手たちの顔触れは、今にして思えばそうそうたるものであった。

 DFデサイー現主将(初キャップ94年)を筆頭に、GKファビアン・バルテズ(同94年)、DFビセンテ・リザラズ(同92年)、リリアン・テュラム(同94年)、MFクリスチャン・カランブー(同93年)、ユーリ・ジョルカエフ(同93年)、FWクリストフ・デュガリー(同94年)など、98年のFIFAワールドカップTM制覇を支えた英雄たちの名がずらりと並ぶ。さらに彼らより2、3年早く代表デビューを果たした先輩選手の中には、DFローラン・ブラン、MFディディエ・デシャン、エマニュエル・プティなどもいた。

 デサイーは、当時のフランス代表の雰囲気について、こんなふうに述懐する。
「自分が初めて参加したころの代表は、はっきり言って主力選手たちのまとまりはあまり良くなかった。つまり、パパン中心のマルセイユ組、ジノラ中心のパリSG組、そしてカントナ中心の外国チーム組、といったグループに分かれていた。そんなことも影響して、スター選手たちは時々独り善がりなプレーを見せたりもしていた。でも、その一方で、ほぼ同じ時期に代表に呼ばれるようになった若手選手は、お互いすごく仲が良かったんだ。ジャケ監督が指揮を執るようになってからは、とにかく組織的に戦うことが強調された。彼が目指すサッカーは、そんな僕たち若手の雰囲気にピッタリだった」

 90年のイタリア大会、そして94年のアメリカ大会と、フランスのFIFAワールドカップTM2大会連続予選敗退という結果は、プラティニ時代の奔放なスタイルが、もはや過去へのノスタルジーでしかないことを露呈した。そして、ジャケ監督は決断する。プラティニ時代との決別を。奔放な血を受け継ぐ、カントナ、パパン、ジノラとの決別を。

 その後のフランスの躍進については、多くの言葉を必要としないだろう。ジャケ監督のチームは、懐古派からの多くの批判に屈すことなく、あくまでも組織的なモダンサッカーを追求していく。その間、メンバーが結束し、期待通りの成長を見せることで、フランスは王位への道を一歩一歩進んでいくことになる。その中心には、卓越した攻撃的クリエーティビティーを持ちながらも、「両親からいつも周りの人々に対する尊敬を忘れないようにしつけられた」という、常に組織全体、仲間全体のことを考えるジダンが据えられた。

「自分が得点するのも、ほかの仲間の選手が得点するのも、喜びは同じ。大切なのはあくまでもチームだ」
 過去の奔放なフランス代表ではあり得なかった、新タイプの司令塔を中心に据える決断をジャケ監督が下した時、モダン・サッカーによるフランス黄金時代の幕は開き始めたのである。

<この項、了>

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