コラム

セルヒオ・レビンスキー/Sergio Levinsky
スポーツナビ

マラドーナとリケルメ――スター同士の対決 (1/2)

2009年3月30日(月)

■蜜月時代の終わり

マラドーナ(左)のW杯予選初陣となったベネズエラ戦は、アルゼンチンが4−0で快勝した
マラドーナ(左)のW杯予選初陣となったベネズエラ戦は、アルゼンチンが4−0で快勝した【Getty Images】

 アルゼンチン人はさまざまな環境において、あらゆる種類の“戦い”に慣れている。文学界ではホルヘ・ルイス・ボルヘス派とフリオ・コルタサル派の対決、あるいは大統領に三選したファン・ドミンゴ・ペロンの支持者と反対派の対立、50年代のカーレース界におけるファン・マヌエル・ファンジオと、ライバルのオスカル・アルフレード・ガルベスのファンの争い……。
 サッカーでは、2つのワールドカップ(W杯)の優勝監督――セサル・ルイス・メノッティ(1978年アルゼンチン大会)とカルロス・ビラルド(86年メキシコ大会)は犬猿の仲と言われる。そして今日では、アルゼンチン代表監督のディエゴ・マラドーナと、ファン・ロマン・リケルメの確執が伝えられている。

 多くの人にとって驚きだったのは(何カ月にもわたり、代表を見てきた者にとってはそうでもないが)、リケルメが今回、「マラドーナが監督である限り、アルゼンチン代表に戻るつもりはない」と断言したことだ。
 しかし、さほど昔ではない2001年11月、86年W杯のスターは、愛するボカ・ジュニアーズのファンで埋め尽くされたスタジアムで引退試合を行い、サッカー選手として別れを告げた。そのとき伝統の背番号「10」のユニホームを託したのが、ほかならぬ“新たな敵”リケルメだったのだ。

 01年に象徴的なユニホームとともに刻まれた友情関係はその後も続いた。マラドーナは“ラ・ボンボネーラ”(ボカのホームスタジアム)のボックス席から、毎週のようにリケルメを応援していたのだ。リケルメがボカから欧州へ新天地を求め、07年に古巣に戻ってからも変わらず。なのに、2人の関係が終わりを告げたのはなぜだろうか?

■リケルメを怒らせた理由

 その理由については諸説ある。表向きには、マラドーナが本人に直接でなく、メディアに向かって、リケルメのプレースタイルやフィジカルコンディションがよくないなどと語ったことが気に障ったというものだ。こういう問題を1対1で話すことができない指揮官に対し、「考え方も倫理観も違う人間とは一緒にやっていけない」とリケルメは語っている。

 その一方で、今回のマラドーナへの怒りの根源は、ずっとさかのぼるという説もある。アルゼンチンサッカー協会(AFA)と会長のフリオ・グロンドーナが、アルゼンチン代表のリーダーシップをリケルメではなく、いまや世界的なスターとなったリオネル・メッシに任せたいという希望を持っていることに気づき始めたからだというのだ。リケルメの技術的な資質は疑う余地がないが、難しい気性は知られるところである。競争心が強く、チームメートといい関係を築くことができないのではないかと思われているのだ。

 リケルメがグロンドーナに対して最初に強い憤りを覚えたのは、08年北京五輪に向けてのトレーニングの時だと言われる。グロンドーナが代表チームを訪問した際、会長は皆のいる前でメッシを抱き締め、「君が代表を背負わなければならない。チームは君の物なんだから」と言ったというのだ。

 思い出されるのは、05年にオランダで開催されたワールドユース(現U−20W杯)である。アルゼンチンはグループリーグの初戦でメッシをベンチに置き、米国に0−1で敗れたのだ(メッシは46分から途中出場)。その夜、グロンドーナは当時のユース監督、フランシスコ・フェラーロを電話口に呼び出し、こう言ったという。「メッシをスタメンで出すか、さもなければ君がすぐにアルゼンチンに帰るかだ」。それ以降、メッシはスタメンに名を連ね、アルゼンチンは優勝したのだった。

 <続く>


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