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(『サッカー批評』25号掲載「トヨタカップ、24年目の証言」より)
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■インターコンチネンタルカップ日本開催の謎
1981年2月11日の正午、イスラエル人の主審、アブラハム・クラインのホイッスルが国立競技場に鳴り響き、トヨタカップの歴史が幕を開けた。ヨーロッパ代表は、名将ブライアン・クラフに率いられ、トレバー・フランシス、ピーター・シルトンらイングランド代表選手を多数擁するノッティンガム・フォレスト。対する南米代表は、36歳の若き指揮官、ファン・マルチン・ムヒカの手腕によって古豪復活を果たし、ワルデマール・ビクトリーノ(この大会のMVP)、アルセニオ・ルサルドなど、ウルグアイ代表メンバーをスタメンに7人揃えたナシオナル・モンテビデオである。
国立の芝が茶色い当時の映像を眺めながら、あらためて気付かされるのが、24年間という時の重みである。20世紀から21世紀へ。昭和から平成へ。これだけ長きに渡って大会が継続することを、この時、スタンドを埋め尽くしていた6万2000人の観客のうち、果たして何人が想像できただろうか。そして、今年12月12日。24年間、25回に及んだトヨタカップは、その歴史的な役割を終えて静かに閉幕する。この感慨深い日を迎えるにあたり、私にはどうしても確認しておきたいことがあった。
すなわち、トヨタカップの前身であるインターコンチネンタルカップを日本に呼んだのは、果たして誰か。そしてどのような経緯を経て、この「クラブ世界一決定戦」は日本開催が実現したのか――気が付けば私は、これらの疑問で頭がいっぱいになっていた。
かつて、ホーム&アウエーで開催されていたインターコンチネンタルカップが、欧州対南米の対立の先鋭化によりスタジアムでの暴力事件が多発。一時は開催そのものの存続が危ぶまれていたのを、中立国での一発勝負という新たな大会フォーマットを日本側が提案し、これが現在のトヨタカップとなった……というのが一般的に知られている、この大会の前史である。では何故、開催地に日本が選ばれたのだろうか。ワールドカップに一度も出場したことがなく、FIFAへの影響力も極めて小さく、国内リーグはアマチュアで、サッカーがナンバーワン・スポーツではない80年代初頭の日本で、何故に「クラブ世界一決定戦」などという大それたイベント開催が可能となったのだろうか。よくよく考えてみれば、実に不思議な話ではないか。
すでに、2002年のワールドカップ日本招致活動を巡るさまざまなエピソードは、書籍になり、ドラマ化もされ、多くの人々の知るところとなっている。ところが、このトヨタカップ開催に至るまでの経緯については、なぜか不自然なまでに文献は少ない。
■四半世紀の時代を超えて
こうした背景から、私はトヨタカップ黎明期の当事者たちの何人かにインタビュー取材を行った。その成果は「トヨタカップ、24年目の証言」というタイトルで、12月10日発売の『サッカー批評』第25号(双葉社)に発表される予定だ。
だが、数多くの興味深い証言は得られたものの、紙幅の都合から掲載できるのは、ほんの一部でしかない。実にもったいない話である。そこで今回、個々のインタビュー取材をスポーツナビの「トヨタカップ特集」連載企画として再現することを私は思い立った。
ここにご登場いただいた5名の方々は、トヨタカップに深くかかわった経験をお持ちで、いずれも『サッカー批評』と当サイトでの掲載に快く応じてくださった方々ばかりである。ご協力いただいた皆さんには、あらためて御礼申し上げる次第だ。
最後に、当連載について、あらかじめお断りしておきたいことがある。
実は、それぞれのインタビューを付き合わせると、各人の証言に微妙なギャップや矛盾点が見られる。どちらが事実に基づく証言なのか、最後まで判断しかねた部分も少なくなかった。確かに、立場が違えば見方や考え方も異なるのは、当然の話ではある。加えて、四半世紀の時代の壁は想像以上に厚かった。証言者の記憶が不鮮明であるのも、無理はないと思う。特に第1回トヨタカップ開催に関しては、大半の話が水面下で動いていたこともあって、当時の報道を調べても確認しきれなかったのが実情である。
当連載では、これらのギャップや矛盾点についてはあえて言及せず、証言者の言葉を極力生かす形で掲載する。果たして、トヨタカップ開催(=インターコンチネンタルカップ日本開催)を日本で最初に思い立ったのは誰だったのか――私自身の結論は『サッカー批評』で述べているが、当連載では読者の皆さんのご判断に委ねることとしたい。
(インタビュー・構成:宇都宮徹壱)
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