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トヨタカップから2002年への長き道のり(1/3) トヨタカップを呼んだ男たち 第5回 長沼健
2004年12月10日
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| トヨタカップの歴史について語る元日本サッカー協会会長の長沼健氏【 photo by 宇都宮徹壱 】 |
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●●「トヨタカップを呼んだ男たち」を訪ね歩く当連載も、今回が最終回。これまでも、偉大なる先駆者や業界の大物にインタビュー取材を行ってきたが、連載のトリにふさわしい人物として私が今回選んだのは、元日本サッカー協会会長の長沼健氏である。 長沼氏については、今さら多くを語る必要もないだろう。戦後の日本サッカー史の重要なシーンにおいて、常に当事者であり続け、しかも重要な役割を果たしてきた「生ける伝説」――それが長沼氏である。日本が初めてワールドカップ予選に参加した、1954年の韓国戦(2試合とも日本で開催された)では、ワールドカップ予選における日本代表初ゴールをゲット。64年の東京五輪と68年のメキシコ五輪では、代表監督を務め、東京ではベスト8、メキシコでは銅メダルにチームを導き、わが国に空前のサッカーブームを呼び起こした。76年から日本サッカー協会専務理事となり、さまざまな制度改革を断行。副会長となった87年からは、Jリーグの立ち上げに大きく寄与し、94年に第7代会長に就任すると、今度は2002年ワールドカップ招致活動に奔走する。会長職を退いたのは、98年のワールドカップ終了後のこと。長年の夢であったワールドカップ初出場を、会長として見届けることができたのは、これ以上にない喜びであったことだろう。 そんな長沼氏は、当然ながらトヨタカップ立ち上げ時においても、やはり当事者であった。だが、インターコンチネンタルカップ日本開催が初めて報じられたころの報道を読む限り、当時の長沼専務理事のコメントは、意外にも歯切れの悪いものであった。 「理事会で話をツメるだけの資料がないんです。スケールの大きい話で魅力はありますが(中略)いまの時点ではどうも…」(『サッカー・マガジン』80年12月10日号) しかし関係者の証言によれば、協会で最もこのアイデアに積極的だったのは、ほかならぬ長沼氏だったとされる。実際のところは、どうだったのだろう。そして当時の日本協会はなぜ、インターコンチネンタルカップ日本開催に消極的だったのであろうか。かつて協会があった、東京・代々木の岸記念体育館にて、日本サッカー界の「生ける伝説」を訪ねることにした●●
(取材:11月4日 インタビュアー:宇都宮徹壱)
■本当のニュートラルなんて、この地球上にはない
――今日はよろしくお願いします。その昔、この岸記念体育館にサッカー協会があったと聞いていますが、なかなかいい雰囲気のお部屋ですね
「79年に日本が、ワールドユースなんて身分不相応な大会をやらかしたんですが(笑)、当時FIFA(国際サッカー連盟)の専務理事だったブラッター(現FIFA会長)さんが来日したんですね。で、『日本サッカー協会の本部に表敬訪問に行きたい』って言うから、こっちは『いいよ、いいよ』って(笑)。それでも、どうしても行くってしつこく言われてね。 当時はここ(岸記念体育館)の3階にサッカー協会があって、何かあったらすぐに下の『スポーツマン・クラブ』に――あそこがわれわれの応接間なんですが、そこにブラッターさんを連れて行こうとしたんです。それでも「ぜひオフィスを見たい」というから、仕方なくお通ししたら、『これ、書庫じゃない?』って(笑)。そりゃあ、FIFAから見たらそうでしょう。あの時ブラッターさんは、女性秘書と2人で東京プリンスに大きな部屋をオフィスに使っていて、机を斜めに置いて花をボーンと飾って。向こうの人はこうなんですね。日本人は美的感覚がないわけではなくて、スペースがもったいないと感じる(笑)。まあ、ここにいた当時は、そんな感じでしたね」
――さっそくトヨタカップ、あるいはインターコンチネンタルカップ(※1)日本開催についてのお話を伺いたいと思います。これだけの大会を当時の日本で開催するというのは、協会としても驚天動地のお話だったと思いますが、長沼さんがこのプランを最初に耳にされたのはいつ頃のことですか?
「その前から、うわさとしてね。インターコンチはやるんだけれど、欧州側が南米ではやりたくないと。その理由というのがね、南米で試合をするのは大変なんだと。どういうことかというと、南米では、欧州のクラブが泊まっているホテルの周りで、車が24時間クラクションを鳴らし続けるんだというんですよ。そんな状況で世界一を決めても仕方ないだろう、というわけなんですよ。 じゃあ、南米と欧州にとってのニュートラルってどこだろうと考えても『ない』というのが結論なんですよ。南米から見れば、日本を含めたアジアのほとんどは北半球にあるじゃないか。そうすると、北半球じゃあ面白くねえとかね、放映時間の問題もあるし、そうなるともう月でやるしかないだろうと(笑)。本当のニュートラルなんて、この地球上にはないんだから」
(※1)インターコンチネンタルカップ:1960年に始まった、欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)優勝クラブと南米リベルタドーレスカップ優勝クラブによるホーム&アウエーのカップ戦。その後、特に南米開催でのゲームで暴力事件が多発したことから、欧州側の出場辞退が続出し、80年には中断状態となっていた。
■「冬の時代」から少しでも「春の時代」に
「そうしたら、一国開催での一発勝負だったらあり得ると。シーズンオフで、一国開催の一発勝負でやるんだったら、欧州は応じてよいというんですよ。南米はまあ、どこでやっても勝つんだ、という感じでしたから。そこで、ちょっと可能性を感じたものだから、今度は『果たして日本でできるのかどうか』ですよ。 まず、お客さんは来るのか。当時はまだ“冬の時代”でしたから、ただでさえ寂しい状況の中で、世界の一流が来てものすごい試合をやられたらね、『日本のサッカーはこんなに貧しいのか、情けないのか』って、正体見たりってことになるんじゃないかという懸念を持つ人はいましたよ」
――確かに、当時の日本サッカーの状況を考えれば、そういった懸念も当然あったでしょうね
「でも、何を言っておるのかと。世界の一流が何たるかを見て、肌で感じて、知る。選手も、関係者も、一般の人も『さて、日本があそこまでにたどり着くためには、何が必要なのか』って考えることが先決だろうと。それを『あんなものを見せられたら、えらいことになる』なんていうんなら、こんな敗北主義はないですよ。少なくとも“冬の時代”から少しでも“春の時代”に向かいたいという思いは、誰もが思っていましたから、正面切って協会内で可否を議論してもNOという人は少なかったですよ」
――そもそも、この話を最初に日本協会に話を持ちかけたのは、どこだったのですか?
「いやあ、覚えてないですね。ただ電通さんを通して、トヨタさんが(トヨタ自販とトヨタ自工の)合併話と絡んで、何か大きなスポーツイベントを検討していて、サッカーもその候補に挙がっているというお話は聞いていました。それはいいよな、トヨタさんはワールドワイドだから。もちろん、スポンサーになっていただくのは結構な話だけど、スポーツはスポーツだから、サッカーということであれば話をまとめるのは、われわれ日本サッカー協会になるんだろうな――そんな話は内々でしていました」
<続く>
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