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市川伸一 スポーツナビ

第1回 「リエゾン草津」という序章(2/2)
ザスパ草津、知られざる10年史

2005年04月20日

リエゾン草津のユニホーム。キーパーの物は97年当時のもの。赤は2000年シーズンの物である
リエゾン草津のユニホーム。キーパーの物は97年当時のもの。赤は2000年シーズンの物である【 Photo by 市川伸一 】


■知られざる前身、リエゾン草津


 ここで簡単に、ザスパ草津の歴史を振り返ってみよう。

1995年 群馬県草津町に東日本サッカーアカデミーが設立。このチームが母体となり、リエゾン草津が結成される。監督にモンテネグロ人のラトコ・ステボビッチ氏を迎え、群馬県社会人サッカーリーグ4部に登録し、同リーグ優勝
1996年 群馬県社会人サッカーリーグ3部で優勝
1997年 群馬県社会人サッカーリーグ2部で優勝
1998年 群馬県社会人サッカーリーグ1部で7位に終わりシーズン2部に降格
1999年 経営難のため、東日本サッカーアカデミーが閉鎖され、選手も4名まで激減。それでも地元クラブ、元選手たちの協力でチームは存続し、群馬県社会人サッカーリーグ2部に残留
2000年 ラトコ・ステボビッチ監督が復帰し、群馬県社会人サッカーリーグ2部に参加。2位
2001年 群馬県社会人サッカーリーグ2部で優勝するも、チーム事情により選手が激減。12月に関係者の紹介で、大西忠生、植木繁晴、賢持僚右の3名が草津町を視察
2002年 現代表取締役である賢持がチームの再建に着手し、奥野僚右を監督に招へい。チーム名も、リエゾン草津からザスパ草津に変更。群馬県リーグ1部で優勝
2003年 図南クラブとの入れ替え戦に勝利し、関東リーグ2部参戦。その後、日本サッカー協会へ「Jリーグ入りを標榜とするクラブに対する優遇措置」を申請し、7月に認められる。同関東リーグ2部で優勝し、特例により地域リーグに参加。ここでも見事優勝し、最短でJFL昇格
2004年 JFLに参加し、9月にJリーグへの加入申請。最終順位こそ3位であったが、12月6日にJリーグ新規参入が認められ、その後の天皇杯では横浜F・マリノスを破りベスト8の成績を残す

 さて、こうして振り返ってみたとき、ザスパ草津の前身である「リエゾン草津」というチームを知るサッカーファンは、決して多くはないだろう。では、ザスパのエンブレムに描かれた「獅子頭」に「1995」と書かかれていることにはお気づきであろうか? そう、このチームの歴史は、リエゾン草津の創立の1995年から始まるのである。
 過去があって、初めて現在と未来がある。ザスパとなった初年度の2002年でも、リエゾンからの生え抜き選手は多数在籍していることを考えれば、「道」のはじまりは、やはり95年のリエゾン設立から、と見るべきであろう。
 では、このリエゾン草津とは、果たしてどのようなチームだったのだろうか。


■残るか、去るか、という二者択一


 前述の通りリエゾン草津とは、1995年に草津町に設立されたサッカー専門学校「東日本サッカーアカデミー」に通う選手たちを中心としたチームであった。そしてチームの経営に関しては、草津町、吾妻郡の企業数社が出資していた。
 草津町は、昔からサッカーフェスティバルなどが盛んでグラウンドも豊富。おりしもJリーグブームの余波もあって、地元にサッカーチームを作れば将来的に草津のアピールにもなり、サッカーと温泉の両方で相乗効果が期待できる、といった期待感も地元にはあったのだろう。
 チームは、JSL2部に所属していた事もある東邦チタニウムで指導していたラトコ・ステボビッチを講師兼監督で招へい。96年には2期生も入学し、チームも毎年カテゴリーを上げて順調なスタートを切った。監督がセルビア・モンテネグロ出身であったことから、当時はシーズン前にセルビアで1カ月間の合宿を行ったり、セルビア人選手をチームに加入させるなど、かなり本格的な活動をしていたようである。当時の所属選手によると、発足当時は「ありえないぐらい下手な選手が、ありえないぐらい上達していた。チーム全体目に見えて成長していて、一番充実していた時期」であったらしい。

 98年の春には県社会人リーグ1部で戦うためにセレクションも行い、「プロ契約」をトップに4つの選手カテゴリーを設け、この年からアカデミーの生徒よりも一般選手を多く抱えるようになった。しかし、結果はリーグ7位。目前だった関東リーグ昇格はもちろん、1部残留さえもかなわず、リエゾンはあえなく2部に降格する。この年にラトコに代わって就任した日本人監督は解任。チームの運営内情についても、サッカークラブ経営に関してまったくの素人であった地元企業の社長がオーナーであったため、有効策を打ち出せないまま、学校とチームの経営状態は悪化の一路をたどっていった。アカデミーのカリキュラムも、かなりいいかげんな内容になってしまい、生徒たちが次々と離脱。ついには、寮の維持費をまかなえない状態にまで追い込まれる。

 悪夢のような98年が終わり、アカデミーは冬休みに入った。選手たちもいったんはオフとなり、99年の再始動を向かえるのだが、さらなる激震がチームを襲う。
 オフを終えた選手たちを待っていたのは、「東日本サッカーアカデミーの閉鎖」の発表であった。経営陣は撤退し、選手たちは寮にいることもできなくなってしまう、まさにチーム存続の危機。自腹を切ってでもここに残り、サッカーを続けるか。それとも、ここでチームを去るか。寮の会議室に集合した選手たちは、その場で二者択一を迫られた。


■無名選手が繋いだザスパへの「夢」


 結果としてリエゾンは、一時期4名にまで減少することになった。彼らは草津町に家を借りて、狭い部屋の中で集団生活を続け、朝も夜も働きながらリエゾンを存続させたのであった。とはいえ、当然ながら4人では試合はできない。そのため地元サッカークラブに頭を下げ、また以前にリエゾンに在籍してた選手たちにも「試合だけでいいので来てほしい」と連絡を取り、何とかこの年の群馬県リーグ2部の開幕に合わせることができた。

 ここでひとつの疑問が生じる。監督は誰が引き受けたのだろうか。またチーム運営は誰が行っていたのだろうか。その答えは、4人のメンバーのひとり、木村直樹であった。リエゾンの生え抜き選手であり、またチームのキャプテンでもあった木村は、何とこの時期、監督も運営もひとりでこなしていたのである。寮も使えないし、練習場も使えない。そんな八方ふさがりの状況の中、木村をはじめとする4人の選手たちは、練習場確保のためにさまざまな方面にしらみつぶしに当たった。
 やがて地元の旅館を中心に、木村たちの努力を理解し、協力してくれる人たちも現れるようになる。そこで生まれた関係が、のちにチームがザスパ草津となってから、選手たちが働く「プレイヤーズパートナー」となり、さらには地域との「パイプ役」へと発展していくのである。またこの時、支援者の一人から「何とか1年我慢すれば、翌年から協力する」という言葉をもらい、選手たちは必死になってチームを存続させたのである。
 時には11人集まらず、9人で戦った試合もあった(それでも勝利した)。かくして激動の99年、チームはかろうじてリーグ戦を戦い抜き、何とか2部残留という最低限の条件をクリアしたのである。

 続く2000年、地元の協力も得ながらチームは再始動。ラトコ・ステボビッチが監督に復帰し、選手たちは草津で働きながら寮費とラトコの給与分を出し合うこととなった。このシーズンは2位で終了し、残念ながら1部昇格はならなかったが、翌2001年には2部で優勝し、念願の1部復帰を果たす(もっとも、その年の暮れから翌年の1月にかけて、またしてもチームは激動の時代を迎えるのだが……)。

 リエゾン草津の苦難の歴史を振り返ってみて、あらためて思うことがある。それは「リエゾン」という母体がなければ、小島や山口といった選手たちが草津の地に集まることはなかった、ということだ。99年の時点で「リエゾン」という器が消滅していれば、そして木村をはじめとする4人の選手たちがチーム存続の熱意を失っていたならば、現在のザスパはあり得なかっただろう。
 なお、監督兼運営スタッフ兼キャプテンを務めた木村直樹は、現在もコーチスタッフとしてザスパ草津に在籍している。「1995」からチームを知る男は、彼一人であろう。こんな波乱万丈なバックグラウンドを持ったスタッフがいる。これまた、このチームらしい、何とも味わい深いで話ではないか。

<次回に続く>

■市川伸一/Ichikawa Shinichi
1971年埼玉県生まれ。小学校の頃からサッカーを始め、そのおもしろさのとりこになる。もともとポジションが左ウイングだったため、好きになる選手も猪突猛進ウインガータイプばかり。現在はクロアチア代表ミラン・ラパイッチを「師匠」と仰ぐ、ヘッポコプレーヤーでもある。マイナーフットボールの地位向上、そしてレベル向上と言う「底辺」の拡大こそ日本サッカー界の発展であるとの信念から取材活動を続ける。

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