コラム    
セルヒオ・レビンスキー/Sergio Levinsky
スポーツナビ

ベロンが語るクラブ愛、そしてアルゼンチン代表 (1/2)
復活を遂げた希代の司令塔

2009年7月22日(水)
南米王者に輝き、トロフィーを掲げて喜ぶベロン(中央)
南米王者に輝き、トロフィーを掲げて喜ぶベロン(中央)【Photo:アフロ】

 約10年にわたるヨーロッパでのプレー生活を経て、2006年に母国アルゼンチンに戻ってきたファン・セバスティアン・ベロンが再び輝きを放っている。自らがプロキャリアをスタートさせたエストゥディアンテスに復帰して3年――クラブは08年に国内リーグで23年ぶりの優勝を果たすと、翌年には39年ぶりに南米王者の称号を手にした。その輪の中心にいたのが、“ブルヒータ”(小さな魔法使い)と呼ばれるベロンである。

 針の穴を通すような長短自在のパスを武器に、味方のチャンスをお膳立てする希代の司令塔。34歳になった今も、卓越した戦術眼、経験に裏打ちされたテクニックは健在だ。欧州での最後の数シーズンはけがに泣かされることも多かったが、エストゥディアンテスではコンディションを保っている。08年にはボカ・ジュニアーズのファン・ロマン・リケルメらを抑えて、南米年間最優秀選手賞を獲得した。

 07年6月には、コパ・アメリカ(南米選手権)でアルゼンチン代表に復帰。現在の代表監督、マラドーナからの信頼も厚く、10年のワールドカップ(W杯)・南アフリカ大会も見据えている。コパ・リベルタドーレス(以下、リベルタ杯)優勝の興奮が冷めやらぬ中、ベロンに話を聞いた。

■優勝はクラブの神話を取り戻すこと

――エストゥディアンテスでリベルタ杯に優勝したことは、君にとってどんな意味がある?

 いろんな感情が交錯しているよ。僕はエストゥディアンテスのファンでもあるから、信じられないくらい満足している。このクラブでプロとしてのキャリアをスタートして、ここで1人の人間としても成長できた。それに、僕の父ラモンは約40年前にリベルタ杯で3連覇を成し遂げていて、クラブにとって偉大な人物なんだ。1968年のインターコンチネンタルカップ(現クラブW杯)では、ボビー・チャールトンやジョージ・ベストがいるマンチェスター・ユナイテッドを破って優勝したんだよ。だから、4度目の優勝カップを獲得することは、クラブの神話を取り戻すことでもあったんだ。

――君とお父さんが1つのクラブで歴史を継承しているというのは、象徴的な出来事だと言える。ポジションこそ違うけれど

 父は左のウイングで僕はセントラルMFだから、プレースタイルは違うね。多くの人が言うには、強烈な個性を持った選手がそろっていたチームにあっても、父は存在感が際立っていたらしい。ほかにはMFだったカルロス・ビラルドもいたわけだからね。当時は選手みんながひとつの家族のようで、彼らは今でも連絡を取り合っているみたいだ。

――国内リーグで4回しか優勝していない中堅チームが、リベルタ杯を4回、インターコンチネンタルカップを1回制していることをどう説明する?

 チームとして結束しているからじゃないかな。特に60年代後半に生み出された神がかったような偉業はほかにはないものだ。エストゥディアンテスが67年に初めて国内リーグのタイトルを獲得するまでは、31年に始まったリーグの歴史において、5つのビッグクラブ(ボカ、リバー・プレート、ラシン・クラブ、インデペンディエンテ、サン・ロレンソ)しか優勝していなかった。つまり、エストゥディアンテスのリーグ制覇は英雄的な出来事だったんだ。それから、リベルタ杯で3連覇(68〜70年)、インターコンチネンタルカップでも優勝した。でも71年のリベルタ杯は決勝でナシオナルに負けてしまい、4連覇はならなかったんだ。

 その後は、ビラルドが監督だった82年にメトロポリタンリーグを制し、翌年もエドゥアルド・マネラがチームを引き継いでナショナルリーグで優勝した(当時は2リーグ制)。83年はリベルタ杯もあと一歩のところまでいったんだ。でも準決勝(リーグ戦)では、歴史に残る戦いの連続で、結局グレミオに及ばなかった。現在の監督のアレハンドロ・セベージャは80年代のチームにおけるスターの1人で、当時のチームメートだったジュリアン・カミノ、クラウディオ・グナリもスタッフ入りしている。

■ずっとエストゥディアンテスに復帰することを夢見ていた

――エストゥディアンテスのファンの存在は、君がヨーロッパから戻ってくる時に大きな影響を与えたんだろうか? ボカやリーベルからもオファーがあったと言われるけど

 ヨーロッパで長い間過ごして、幸運にも僕には戻ってくる環境が整っていた。ずっとエストゥディアンテスに復帰することを夢見ていたんだ。父は今でもクラブの育成部門で働いているし、そこには僕の弟もいる。だから、故郷であるラ・プラタに戻り、家族と一緒にいられることがとても幸せなんだ。今回の優勝で、その喜びが最高潮に達したと言えるね。

――君はまだ若い時に2部でプレーするという厳しい経験をしている。エストゥディアンテスの歴史の中では、そう頻繁にあることではないよね?

 確かに、エストゥディアンテスが2部に降格したのは53−54シーズンと、僕がプレーした94−95シーズンの二度だけだ。若い僕にとっては不思議な経験だった。すぐに1部に上がらなければいけないというプレッシャーもあったけど、マルティン・パレルモ(現ボカ・ジュニアーズ)や(02年に)亡くなってしまったエドガルド・プラトラらチームメートから多くのことを学んだよ。僕らは今回、リベルタ杯優勝をプラトラにささげたんだ。

――その後、君は大きく成長した

 多くのことを経験したからね。96−97シーズンはビラルド率いるボカでプレーして、チームメートにはディエゴ・マラドーナやキリ・ゴンサレス、クラウディオ・カニージャといった選手がいた。そこから、セリエAへとステップアップできたんだ。最初はサンプドリア、それからパルマ、ラツィオ、マンチェスター・ユナイテッド……。欧州での最後はインテルだった。

■まだ体の動くうちに経験を伝えたい

――06年に君がアルゼンチンへ戻ろうとした時、インテルは残留することを望んでいたよね?

 そうだね。でも母国が恋しくなっていたし、これがラストチャンスだと感じた。まだ体の動くうちに、エストゥディアンテスに僕の経験を伝えたいと思ったんだ。そして幸いにも、すべてがうまくいったというわけさ。復帰した年に奇跡的にリーグタイトルを獲得できたし(前期リーグでボカ・ジュニアーズとの優勝決定戦を制する)、08年にはコパ・スダメリカーナでファイナリストになった。決勝ではインテルナシオナルに敗れて優勝はできなかったけど、僕らが正しい道を進んでいることは確認できた。つまり、08−09シーズンのエストゥディアンテスは南米の2つの大会で決勝を戦ったことになるんだ。

――でも、その間に監督は何人か変わっている

 そんなにチーム状態が悪かったわけじゃない。(06年〜07年に指揮した)ディエゴ・シメオネが退任した時だって、前年にリーグ優勝しているんだ。とはいえ、僕が復帰した06年以降、ホルヘ・ブルチャガ、シメオネ、レオナルド・アストラーダ、そして最近はアレハンドロ・セベージャと監督が変わっているのは事実だ。今年の3月にセベージャが就任した時はすでにシーズンは始まっていて、リベルタ杯でもグループリーグを何試合か消化していた。

――セベージャは君たちに何をもたらしたんだい?

 セベージャはシンプルな人だと思う。彼が言うのは必要なことだけだ。チームに平穏をもたらし、そのおかげで選手たちは自由にプレーだけに集中できる。僕らは次第に、プレーに自信を持つことができるようになり、結果が伴うようになった。リベルタ杯のグループリーグ序盤は苦しい戦いが続いたけど、最終的には高いレベルでプレーできるようになったんだ。

――監督は「君たちはクラブの歴史の中で最も重要な選手だ」と言ったそうだね

 まあそれはお世辞だよ(笑)。彼は選手時代クラック(名手)だったし、今は僕らの監督だからね。でも、父の歩んできた足跡をこうして僕もたどれることには満足しているし、夢がかなったと言えるね。

 <続く>


◆前後のページ |
■関連リンク
エストゥディアンテス、神話の復活 (2009/7/21)
このページのトップへ
◆最新のコラム

おすすめエントリー

編集部発ブログ

ブログ検索

お知らせ

サイト内検索:  携帯版スポーツナビブログ