■マラドーナとの“不確かな”約束
最近のトレードマークは無精ひげに2つのダイヤモンドのピアス。マラドーナとのインタビューが実現した【 (C)Getty Images/AFLO 】
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ディエゴ・マラドーナは気分がよさそうだった。それは、デンマークを代表するかつてのスターたちとのエキシビションマッチに参加するために、コペンハーゲンへ向かう数日前のこと。彼はすべてを語ってくれた。サッカーについてはもちろんのこと、私生活、未来、フィデル・カストロについて。そして、生死をさまよったあの時のことを――。
8つの照明灯が力強い光を発し、人工芝の小さなスタジアムを照らしている。ブエノスアイレス近郊にある、とある家のグラウンドには、元アルゼンチン代表のアレハンドロ・マンクーソが腰を下ろしていた。 冬にしては比較的暖かさを感じる昼下がり、われわれはいまや45歳になったディエゴ・アルマンド・マラドーナを数時間待っていた。そして彼は約束通り、快く取材に応じてくれた。
マンクーソはかつて代表で共にプレー経験もあるマラドーナの仲間で、この日もほかの友人たちを交えて、コペンハーゲンでの試合に向けて、トレーニングを一緒に行うところだった。 われわれは長い間待った。マラドーナはよく知られているように不安定で、“精神分裂病”だと言う人もいる。ポジティブなことを言ったかと思えば、すぐにネガティブな方向へ行ったりする。矛盾を物ともしないのだ。そんなふうであるから、インタビューが終わるまでは何も保証されてはいない。 だが今回に限っては、われわれにチャンスがあるという確かな兆候があった。というのは、われわれプレスがマンクーソの家に通されるのは、初めてのことだったのだ。
壁に寄り掛かりながら、われわれは待ちわびている“サッカーの神様”について話していた。
「サッカー史上、最も優れたプレーヤーだ」 「1986年ワールドカップ(W杯)のイングランド戦で、ベストゴールを決めた」 「その試合で“神の手”ゴールも決めたよな」
■“神様”は“スキャンダルまみれのメガスター”
その“神様”は、別名“スキャンダルまみれのメガスター”ともいわれている。何年にもわたりドラッグを乱用し、2004年には心臓疾患などを引き起こして、死と向かい合わせにもなった。当時、体重は130キロを超えており、165センチ余りのマラドーナにとって、少なくとも50キロはオーバーしているといえた。
だが、それから2年余りたち、状況は少なからず変わったようだ。2005年8月、マラドーナは自身がホスト役を務める「10番の夜」というバラエティー番組をスタートし、これはアルゼンチンで最も高いテレビ視聴率を記録した。また、彼は自らも愛された地元のクラブ、ボカ・ジュニアーズの試合をしばしば観戦。次第に体重は減り、ドラッグとも手を切った。
それでも、マラドーナは有名なままであり、気まぐれなところも変わっていない。
で、マラドーナは?
われわれは、さらに30分ほど待った。当然ながら、彼だけのために。マラドーナは誰のことも待ったりはしない。 時計が夜の9時を指したころ、ついに彼がやって来た。ナイキのスポーツウエアに身を包み、にこやかにこちらへ向かってくる。手にしていた葉巻はほとんど吸い終わっていた。
「ようこそ」
そう話し始めたマラドーナは、機嫌がよさそうだった。
われわれはスタジアムの裏手にあった白いプラスチック製のいすを彼に勧めた。かつてガリー・リネカーとBBCがインタビュー1本のために2万ユーロ(約300万円)を払わされた、その人が目の前にいた。マラドーナへのインタビューともなれば、それが常識なのだ。かつて、デンマークの『ユランズ・ポステン』紙は、わずか20分間のインタビューに3、4万ドル(約350〜470万円)を要求されて断ったらしいし、日本のテレビ局は1時間10万ユーロ(約1500万円)だと言われて悩んだという。 だが今回、デンマーク訪問の機会に、“アルゼンチン人のマジシャン”は何の見返りもなしにインタビューを受けてくれたのだ。
マラドーナは笑っていた。
無精ひげに耳にはダイヤモンドのイヤリングが2つ。指輪はつけておらず、トレードマークの2つのロレックスの腕時計は見当たらない。代わりにマラドーナが着けていたのは、スポーツ・ウォッチだった。その黒髪はボサボサで、左手に持っていた消えかけのハバナの煙が空中を漂っていた。右手には紙コップに入ったコーヒー。そして、小柄な“偉大なるアルゼンチン人”は話し始めた。
<続く>
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