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【第6回】
「今大会でサッカー・ジャーナリズムが得た教訓とは何か?」 (宇都宮徹壱からの質問状)
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【Photo by 宇都宮徹壱】
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湯浅健二さま
前略
残暑、お見舞い申し上げます。
さて、シリーズでワールドカップ期間中におけるメディアのあり方を検証する当コーナーも、今回で最終回を迎えます。「トリ」を務めていただく湯浅さんには、メディアの最前線での仕事に従事するサッカー・ジャーナリスト、さらにはサッカー・ジャーナリズムそのもののあり方について、ご一緒にお考えいただきたく存じます。
何やら堅苦しいお題目に映るかもしれませんが、要はわれわれが普段現場で考えていること、思っていることについて、キャリアの違いを超えた率直な意見交換ができれば、と考える次第です。
■「私にあったのは『サッカーへの愛』だけでした」
ご存じの通り、私にとって今大会は「初めてADパスを持って取材ができた大会」でした。言うなれば「ワールドカップ初出場」――今大会でいえば、それこそエクアドルやスロベニアや中国のような存在だったわけです(もっとも「セネガル」のようにセンセーションを巻き起こすことはできませんでしたが)。
それまでは辺境地におけるサッカーを、ほとんど我流で取材してきた私にとって、世界中の著名なジャーナリストが一堂に集うワールドカップの現場は、実にスリリングで学ぶべきことが多かった一方で、己の力不足を痛感させられる機会でもありました。
今回、「フォト」ではなく「プレス」として取材することになった私には、「武器」と呼べるものがほとんどありませんでした。語学に堪能というわけでもなく、理路整然と戦術論を語れるわけでもなく、特定の選手や監督と親しいわけでもありません。さらに言えば、どこかの大先生のように名声があるわけでもなければ、元フットボーラーのような語るべき過去があるわけでも、大御所のような経験があるわけでもありません。
よくまあ、こんな私にパスをくれたものだと、スポーツナビの大英断には今さらながら感謝と同時に感心することしきりです。
そんな「ないないづくし」の私が、並み居る著名なジャーナリストと同じ土俵に立ちながら、何とか卑屈にならずに仕事に没頭できたのも「サッカーへの愛」があったからだと思います。というよりも、私にあったのは「サッカーへの愛」だけでした。
もちろん、ここでいう「サッカーへの愛」というものは、サッカーを取材する者にとって、スキルでもナレッジでもありません。しかし、それでも私は、この「サッカーへの愛」こそが、取材現場に立つための最低条件であり、厳しい業界で生き抜くために必要不可欠なものであると考えます。
■「サッカー・ジャーナリズムの自殺に等しい行為」とは
さて、ワールドカップの現場では、実に脆弱(ぜいじゃく)で若輩者の私でしたが、今大会におけるサッカー・ジャーナリズムのあり方について思いを巡らせた時、「サッカーへの愛」ゆえに、どうしても納得できない記事や発言に出くわすことが少なからずありました。
思いつくままに挙げてみましょう。
・特定の選手に感情移入するあまり、日本代表や協会のあり方、そして代表監督の人格にまで言及するような、実に感情的な批判記事を書く。
・自分こそが「日本サッカーのご意見番」であることを誇示したいばかりに、代表を必要以上に貶(おとし)め、日本サッカー界の悲願であったベスト16進出にも難癖を付ける。
・特にサッカーが好きでもないくせに、わけ知り顔でメディアを通してサッカーを語ってしまう。
・目の前で行われた明らかな「サッカーへの不正」に対して、自らの保身のために目をつぶり、耳をふさぎ、口を閉ざしてしまう。
・自らの主張の正当性に固執するあまり、時に事実を曲解し、さらには捏造(ねつぞう)さえしてしまう。
・読者(=大衆)を明らかに見下し、ファンの心理を愚弄するような発言をする。
こうしたサッカー・ジャーナリズムの自殺に等しい行為のほとんどが、ほかならぬ「ジャーナリスト」を名乗る人々によってなされていたという事実、さらに言えば、そうした人々が業界においてそれなりの地位と名声とキャリア、そして影響力を持っているという現実に、私は暗澹(あんたん)とした気分にさせられます。
別に私は、彼らが選手とお友だちになることが好きでも、メディアでサッカーについて講釈を垂れるのが好きでも、あるいは取材先でうまいものを食べるのが好きでも、それはそれで構わないと思います。根底に「サッカーへの愛」が宿ってさえいれば。
言うまでもなく、今大会においては大半のジャーナリストが優れた仕事を残したと思いますし、現場では何人もの尊敬すべき先達たちと出会うこともできました。しかし一方で、こうしたジャーナリズムの自殺まがいの記事や発言が、メディアの世界で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していたのもまた、事実です。その中には、サッカーを心から愛するファンの気持ちを逆なでするものさえ、決して少なくはありませんでした。
■日本のサッカー・ジャーナリズムは「子供服」のようなもの?
ところで、ここ数年の日本サッカー界の躍進に歩調を合わせるかのように、サッカー・ジャーナリズムに親しむ読者のレベルもまた長足の進歩を遂げたことについては、異論はないと思います。進歩していないのは、むしろジャーナリズム自身ではないでしょうか。
すでに読者は、私たちが想像する以上に、その事実に気付いています。当然ながら、「サッカーへの愛」が欠如した発言や文章に対しても、彼らは実に敏感です。だからこそ私は、「ゆめゆめ読者を侮ってはいけない」と肝に銘じながら仕事をしています。
ついでに言えば、私たちの原稿料や印税は、サッカーを愛してやまない読者やファンによって支えられていることを忘れるべきではないと思います。選手たちの収入が、クラブではなくスタジアムに訪れるファンによって支払われているのと同様、私たちもまた「ファンに食わせてもらっている」という事実を謙虚に受け止めるべきでしょう。
ゆえに、ワールドカップが終わった今だからこそ、私たちは今大会において、どれだけ読者やファンを満足させるような仕事ができたのか、そして今後、彼らのために何をすべきか、自身に問い直すべきだと思います。
私見では、今の日本のサッカー・ジャーナリズムは、さながら「子供服」のように思えてなりません。ユーザー(=読者)が子供のうちは、小さいサイズでもよいでしょうが、メーカー側は子供の成長に合わせて、もっとユーザーを満足させるためのサイズを提供すべきでしょう。ところが、いつまでたってもユーザーには、窮屈な子供服しか与えられていません。つまり、選択の余地が極めて限られているわけです。
まっとうな少年・少女であれば、自分が本当に欲しいサイズやデザインの服が欲しいはず。サッカー・ジャーナリズムについても全く同様で、すでに既成の専門誌のレベルに満足できなくなったり、代わり映えのない執筆陣や色あせた言説に辟易(へきえき)している読者はかなり増えているはずです。しかし、わが国のサッカー・ジャーナリズムは、そんな彼らの満たされぬ思いに満足にこたえていないのが現状です。
結局のところ、こうした現状に満足できないファンは、より魅力的で信頼できるコンテンツを求めて、ネットの世界をさまようしか道はありませんでした。
こうした傾向は、今大会において顕著であったと言えるでしょう。
さて湯浅さんは、今大会におけるサッカー・ジャーナリズムのあり方を、どのように分析していらっしゃるでしょうか。そして、4年後のワールドカップに向けて「教訓」があるとすれば、それは何だったのでしょうか。
業界の大先輩として、忌憚(きたん)のないご意見をいただければ幸いです。
草々
(湯浅氏からの回答は次ページをクリック)
宇都宮徹壱/Tetsuichi Utsunomiya 1966年福岡県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、欧州を中心に「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旧共産圏のうらぶれたスタジアムと、現地で飲む酒をこよなく愛する。著書、『幻のサッカー王国』『サポーター新世紀』(いずれも勁草書房)。近著に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)
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